キム・ハナ、ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています。』

友人同士だった二人の女性が40歳を前にマンションを購入し、猫4匹と共に共同生活を始める経緯を描いたエッセイ。『82年生まれ、キム・ジヨン』もそうだったけれど、日本と韓国では社会の中での女性の立場という点で似通っている部分が多いので、2人がそれぞれ一人暮らしをしていた頃に感じていた生きづらさ、一方で結婚という選択をすることへの違和感などは、日本に生きる3~40代の女性にも非常に共感できる内容となっている。

さらに言えば、「結婚ではないからほどよく良好な関係が保てる」という安易な結論にまとまっているわけでもなく、性格の違う他人同士が一つ屋根に暮らすことの苦労についてもかなり詳細に描かれていて、読む側が結婚しているかどうか、パートナーがいるかどうかに関わらず興味深く読める部分なのではないかと感じた。

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』

ここのところ気分が落ち込んでいて、毎日スマホゲームばかりして過ごしていた。しかし不思議なものでスマホのゲームというのはたいてい、ある日急につまらなくなってやる意味が消失する。そして自然と人間を別のことに向かわせるのである。

 

スマホの次に手っ取り早く時間を埋められるものといえば、やはり読書だろう。1か月近く前に買って積まれていたカズオ・イシグロ『クララとお日さま』をようやく読み終えることができた。AF(人口親友)と呼ばれる、少女の姿をした人型AI・クララと、彼女の持ち主となった病弱な少女・ジョジーとの交流を描いた作品。タイトルやあらすじからして心温まる物語を想像しがちだが、そこはカズオ・イシグロなのでそれだけでは終わらない。人間の子供に劣らぬ観察力と知能を持った少女クララの視点から、人間世界の不条理や欺瞞が容赦なく描かれる。

 

自分はこの手の、人間とAIの交流を主とした物語を読むといつもAI側に極端に感情移入してしまう。今回もそうであった。そのような読み方をしてしまうと、読後心が温まることは決してない。むしろ自分がクララと同じように「人間の心を持っているように見えて、実際は物でしかない」ことを突き付けられたかのような哀しみが残る。実際、「人間とAIの境界はどこであるか」等の、明確に〈哲学的な〉テーマも途中に出てくる。しかしこの物語の中では、その境界は比較的わかりやすくひかれているように自分は感じた。

 

久しぶりに読書会をやりたい気分にさせてくれる小説だった。

愚痴を言うことの是非

「愚痴を言っても意味がない。課題とそれに対する解決策のみが意味を持つ」と言う人がいる。実は自分も昔は、仕事の愚痴を言うことに意味を感じなかった。嫌なら辞めればいいのに、と素朴に思っていた。

嫌なら辞めればいいというのは、いまでももちろんその通りだと思う。ただ、今は昔より愚痴の効能を理解できるようになってきた。

大人になると、ものごとが自分の思い通りに行くということはほとんど奇跡に近いことなのだなということがわかってくる。自分の意志で選択し、なにかあればそのことに自分で責任を取る、という理想的な人間のあり方というのは、実はそれほど簡単なものではないのだ、ということが身にしみてわかってくるのだ。

ものごとが自分の思い通りにならないとき、なりようもないとはっきり気付いてしまったとき、それを完全に投げ出すというのもひとつの手段ではあるのだが、他にも手立てはある。誰かに愚痴を聞いてもらって自分の心をなだめつつ、どうにかやり過ごすという方法である。100%思い通りでなくても、70%できているから、よしとしよう、と考える。そして30%足らなかった理由は、身近な人に聞いてもらう。ただそれだけで、また次もがんばろうと思えたりするのだ。

愚痴を侮ってはいけない。

課外活動が必要なとき

私がこのブログを始めようと考えたきっかけは二つある。一つは文章表現を磨くため。もう一つは、書きながら自分の考えを整理することが、自分の精神に良い影響を及ぼすことを期待しているからである。

 

この砂漠のような世界で自尊心を保ち続けることは至難の業である。それでも、自分は自尊心が低いということに気づける程度には、私にも心の余裕というものができた。つい数年前までは、ただ存在することに必死であり、そのことに気づくことすらできなかった。

 

このブログをいつまで書き続けることができるか、正直に言ってこれっぽっちも期待はしていない。ただ、深く考えだす前に行動してみる、という今年の抱負をとりあえずは実行に移してみたまでである。