SNSの正しい使い方

2週間ほど前だろうか、X(旧Twitter)上でもう何年も前にブロックしたはずの友人のポストが突然あらわれた。そのポストは確か数百くらいはいいねされていて、要はまあまあバズっていた。私の目に触れたのも、その友人と全く関係なく私がフォローしたアカウントがリポストしていたからだった。ブロックしたはずなのに私のタイムラインにあらわれたのは、諸々の経緯で新規にアカウントを作り直していたのが原因らしかった。

名前やアイコンは同じだったので私はすぐにその人だとわかった。ポストに書かれていることは現在起きているイスラエルによるカザへの侵攻に反対する内容のもので、至極まっとうだった。しかし、ブロックしたはずの相手のポストがいきなり目に飛び込んできて、それが多くの賛同を受けているものだった時、私の胸が一瞬でも曇らなかったかと言ったらそれは嘘になる。

その場ですぐにもう一度ブロックしてもよかったのだが、なんとなくの好奇心で、それはしなかった。すると案の定、その後も頻繁に友人のポストが(誰かにリポストされて)私のタイムラインに流れてくるようになった。中には数千いいねされているものもあった。ガザに関する内容であることは変わらないものの、文章の端々に友人らしさがにじみ出ていた。なにせ数年前に仲たがいするまで、友人とはかなり親しかったので、あらゆることを知っていたし聞いていた。友人はもっと以前から活発に社会運動をしており、その頃の愚痴なんかもしょっちゅう聞いていた。

私はそれらのポストを複雑な思いで見ていた。書かれていることは至極まっとうで、私自身も賛同できる内容であるにも関わらず、正直自分でも驚くほど不快な気持ちになった。友人と縁を切ったのはもう何年も前なのに、未だにこれほど友人を嫌っているとは自分でも思いもしなかったのだ。一方で、それらのポストを見続けたいような好奇心も同時にあった。

数日前に、私はもう一度友人のアカウントをブロックした。縁を切った人間に無理やり再会させるSNSというシステムはなんて厄介なんだろうと思った出来事だった。

家電談義

今の職場のランチタイムでよく話題になるのが自宅の家電や家具にまつわる話だ。誰かの家で洗濯機が壊れたかと思えば、「旦那がまた勝手に在宅業務用の机を買った」と憤慨している人もいる。うちにも買い替えたい家電はいくつかあるけれど、やはり本格的に壊れて使い物にならなくなるくらいでないと、なかなか買い替えるところまで踏み切れない。使いながら不便さを感じる部分もありつつ、どこかで物に対する愛着があるのも事実。いざ買い替えようとなっても、共に暮らす人がいれば独断で購入品は決められない。スペック等の擦り合わせも必要になってくる。

以前オーブンレンジを買ったときは、徹底的にスペックを調べ上げて、納得したものを購入したにもかかわらず、購入の第一目的であった「自家製パンを焼く」は未だ一度も達成できていない。コロナ禍という長い長い在宅期間を経てもなお、である。私はもしかしたら一生自家製パンを焼くことはないのかもしれない。それでも、通販で買える「あとは焼くだけ」の成型パンをそのオーブンで焼けば至福の時間が味わえるし、そうでなくても、高性能なレンジ機能を使えば毎日冷凍ごはんがちょうどいい塩梅で温まってくれる。

次に買うのは冷蔵庫かな、とほんのり思ってはいて、肉や魚を長持ちさせるチルド機能や半冷凍機能などを調べてみたりはしているが、最終的には「今までと同じ使い方で快適に使えるか」が一番重要なのかもしれない、と思うに至る。

よく眠る方法

とあるラジオで、寝るときに「まるでこたつレッグウォーマー」を履くと冷えなくていいよ、という話を聞いて試してみたところ本当に暖かく眠れた。今までも靴下は履いて寝る派だったけれど、たいていは朝になると裾がふくらはぎまでめくれていて冷たさを感じていたが、それがない。ふくらはぎが守られていることの安心感。しかし足先は出ているのでムレることはない。寝起きが気持ちよすぎて布団から出づらくなるというデメリットは若干あるものの、布団から出るときにも足が寒くない。久しぶりに睡眠改善に役立つものを買えてうれしい。

いちばんすきな花

自分はある種のネット依存なので、毎日驚くほど様々なトピックをネット上で目の当たりにして、あれこれ考えては疲れ果てている。そのことに嫌気がさしてついyoutube等のこれまたどうでもいいショート動画などを見てしまう。

考えすぎたら考えなくさせ、考えなさすぎたら考えさせる。いったい自分でも何をやっているのかよくわからない。そしてそれをすべてインターネットを使ってやっているのが一番よくないのだろう。一応断っておくが、自分も現実世界では仕事もしているし、休日に出かけることもある。ただ、最近少し体調不良で、そのサイクルがうまくまわらなくなってしまっていることも事実。

大量のコンテンツの山の中で、私が最近ちょうどいい気分で見ることができているのがこの「いちばんすきな花」というドラマだ。このドラマの脚本家の方の前作はとても有名で、私も配信で見たが、実はそちらの作品はあまりハマらなかった。今作は楽しく鑑賞している。とはいっても決してわかりやすい恋愛ドラマというわけではないので、いわゆる「何も考えずに見られるドラマ」というわけでもないと思う。

おおざっぱに言えばこの作品の主要登場人物4人はみな、世間一般で言われる人間関係の枠にはまれずに生きてきた人たちだ。恋人を作る、友達を作る、学校のクラスや職場の同僚とほどほどに仲良くする、そういったことが苦手な人たちだ。

そしてそんな彼らを「傷つきやすい心優しい人間」として描くと見せかけて、まったくそんなこともない。例えば椿。優しい見た目と雰囲気、新居が決まった後に婚約破棄されても怒らない、職場で頼まれた仕事はなんでもやる、そんな良い人要素しかない人物だが、自分のことをこんな風に言う。「自分は本当はしゃべるのが好きだけど、しゃべると変な人と言われる。でも黙ってると何考えているかわかんないと言われる。だから本当にしゃべりたいことは初対面の人にしゃべる」。実際椿は、美容師(夜々)との雑談で「お花好きですか?」と聞かれて「花は好きですけど、花屋は嫌いです」と言い始め、滔々と自分語りをしだしたりする。「(あぁ…めんどくさそうな人だな)」と他人に思わせるには十分だ。

そんなめんどくさくて人間味溢れる彼らを見ていると、不思議と心が和む。一応恋愛ドラマ的な描写もあるにはあるのだが、「二人組が苦手」な彼らが好きな人と付き合えてめでたしめでたしとなるとも思えないし、そういう意味では展開の読めないストーリーでもある。やはり『カルテット』(坂本裕二)的なミステリ要素が絡んでくるのか?

仲野太賀にはまだまだ出演してほしい。

ドラマ『こっち向いてよ向井くん』

テレビドラマを見よう、と思うきっかけは年を取るにつれ減っていく。やるべきタスクが山ほどある中で毎週同じ曜日・同じ時間にテレビの前に座るという行為自体が、ジム通いより難しいんじゃないかと思うほどだ。だからこそ今は録画や配信が主流になってきているのだろう。自分もそんな大人のひとりだが、このドラマを見ようと思ったきっかけは、著名なライターの西森路代さんがTwitterでこのドラマの第1話について書いていたのを見たからだ。

これは刺さるな、と直感してドラマを見始めた。実際にとても面白かった。だが全話通して見たあとに第一話を見ると(連ドラのつかみだから仕方ない部分はあるにせよ)、さわやかでイケメンで性格も良さそうな主人公・向井くんが、ほんのりと恋心を抱いた女性に訳も分からぬままこっぴどく振られ、さらに知り合ったばかりの女性(洸稀)に「あなたがただ勘違いしてただけ」と傷口に塩を塗られる、というなかなか強烈なストーリーなので、ライトなラブコメを想像して見た人たちの中には離脱した層も多かったのでは、と感じた。

しかし西森さんも書かれているように1話には名言が多数あり、その中でも抜群に刺さるのは、(「女の子」の気持ちがわからなくて)「女の子ってみんなそう思うの?絶対?」と尋ねる向井くんに対して「『女の子』っていう人格は、ないの。人それぞれ、相手に合わせて考えて」と答える洸稀の台詞。

こんなことをすれば女性は喜びますと指南する結婚相談所もたくさんあるだろう。向井くんの発言はごくごく普通の、大人の男性が言いそうな台詞だ。実際私自身も、似たような台詞を今までに何度も聞いた。当時の私はたぶん「確かに普通の女性はそう思うかもね(自分は違うけど)」とか、そんなことをうっすら思いつつ、それを言葉に出すことすらしなかったと思う。

しかしながらこのドラマで洸稀は断固NOと言う。あなたの考えている女の子って誰?私は知らないから何も言えない、と。

そして面白いのがその直後に、洸稀もまた実際には、女の子のステレオタイプとされているような面を決して持っていないわけではないことがちゃんと描かれているところ。

このドラマは単純に「普通を押し付けるな、ステレオタイプを押し付けるな」というドラマではないと思う。一見現代的な若者なのに、内面では漠然とした昭和の家庭像を持ったまま大人になってしまった向井くんが、自分は実際には恋愛に何を求めているのか?他人とどんな関係を築きたいのか?そんなことを考えながらもがき苦しみ、奮闘する姿を見守るドラマだ。そんな向井くんを常に冷徹な意見でぶった切る洸稀も、実際には彼女なりのやり方で人との向き合い方を考え、悩みながら生きている。

最後に、私はこのドラマで赤楚衛二という俳優さんを初めてきちんと認識したのだが、素晴らしい俳優さんで大好きになってしまい、しばらくは配信で彼の作品を見まくる日々を送りました。

ブログを書く理由について

久しぶりに日記を書いて自分の文章の下手さに愕然としているがそれは置いておくとして。

ブログをもう一度書き始めようとおもったきっかけは、長らく使っていたTwitter(現X)がさすがに読むに堪えなくなってきたということもある。自分は元々読む専門でTwitter上で交友関係を持つなんてこともほとんどなくリアルの知り合いの人とうすーく繋がっている程度の使い方ではあったけれども、逆に公式アカウントやニュースアカウント、自分と似た考えの気鋭の研究者さんのアカウント等をフォローしてそこから色々な情報を得ることはあった。

(多くのSNS依存者と同様)おそらく情報中毒みたいなところがあったので日々何もしなくても勝手に流れてくる膨大な量の情報や他人のぼやきを際限なく読めるTwitterは気づけば自分の生活にとってなくてはならないものになっていた。一方で情報中毒の症状が年々悪化していることも気づいていたのでどこかで歯止めを効かせる必要もあったように思う。

そしてXへの移行やそれ以前のSNS界隈の様々な変化もあって、昔はほどほどに楽しめていた他人のぼやきが、あまりにも強すぎる怒りやメッセージに次第に駆逐されるようになり今ではただのぼやきを探すほうが難しいくらいになってきてしまっている状況が追い打ちをかけた。昔多少なりともつながりのあったリア友も今利用している人はごく少数になってしまった。それでもほぼ読む専門だった自分はだらだらと辞め時もわからず暇さえあればtwitterを開き、「ああまたどこかの界隈が炎上しているな」と確認して、自ら何かを発信するわけでもなくあーだこーだと思考をめぐらせて時間を潰していた。ここまで書かれたことでわかるように、私は単に情報依存であるだけではなくて、思考依存なのである。それなのに「自分が表現することへの欲求」は、他人比べてあまりないようで、実際にTwitterに投稿しまくるようなことにはついぞ至らなかった。あれこれ考えてもせいぜい周囲の仲のいい相手にしゃべっていれば満足してしまっていた。

しかしながら、年を重ねるにつれ、そのことがあまり自分の人生に良い影響を及ぼしてはいなさそうだぞ、ということに気づいてしまった。端的に言えば、インプットしたものは適切にアウトプットする必要がある、ということである。先ほど「周囲の仲のいい相手にしゃべっていれば満足」と書いたが、その内実はそれほど「普通」のことではない。人との「会話」は、口で言うほど簡単なことではない。それに気づかずにいられたのは今まで自分が恵まれていたということだろう。

休息とBTS

前回書いた記事が2年近く前のお正月。パートナーの実家に向かう新幹線の中で読んだ本のことを書いたことを思い出した。このあと友人に「今年はたくさん本を読む年にする」と宣言したことも。

 

それから約2年色々なことがありすぎてブログの存在自体忘れかけているくらいだった。本もさして読めていない。読めていないことはないんだけれども文章にするほどのことがなにもない。周囲に本好きだと話すと時々「どうやって面白い本を探すの?」と聞かれるのだけど、ここ最近の私は同じ言葉を相手にそのまま返したいくらい、好きな本を探すことも難しい。ときどき書店をぶらついて、これかな、と思うものをぱらぱらめくってみてそのまま購入することもあるにはあるけれど、恥ずかしながら、1/3読めたらいいほうだ。一度に持つ集中力はせいぜい10分がいいところ。しかも一度本を閉じるともう一度開こうという意志が完全に消えている。

 

本が読めなくなった私は、別の形で物語に耽溺するようになった。最初はBTS、今はテレビドラマや映画を見ている。

 

BTSって物語なの?アイドル/アーティストじゃないの?全くその通りだしその表現のほうが正しい。だが自分にとっては、物語という表現が近い。熱心にMV等を見始めたのはちょうど「ソロ活動メイン」宣言(2022年6月)の2,3か月前くらいだったから、やはりこれも2年ほど前のことだったはず。彼らへの思いをブログに書き連ねてもおかしくなかったはずなのに、当時はyoutubeをただひたすら見続けていた。今ならまた別の視点で彼らのことも文章にできるのかもしれないが、今はやめておく。

 

こうしてまた何か書こうと思い始めたのは自分にとって良いことなのか悪いことなのか、それもよくわからないが、久しぶりに書きたい気分だった。

終わり。