「息子に望まない生き方を、自分に強いるな」マイ・ディア・ミスター

お題「忘れられない映画やドラマのセリフ」

コロナ禍に、ほぼ初めて見た韓国ドラマがこの「マイ・ディア・ミスター」だったのだが、正直これ以上の作品にはまだ出会えていない。この作品には数多くの名場面・名台詞が登場するが、この台詞は特に印象深い。

40代の主人公ドンフンは大企業で部長職につき、妻は弁護士で、息子は中学生で海外留学に行かせてやれるくらいのエリート。だが実際の彼の生活は、興味のない社内政治に巻き込まれ、妻からも愛想をつかされ、稼ぎの少ない兄弟の面倒も見なければならず、暗い顔で日々を送っている。そんなとき、派遣社員の若い女性であるジアンと出会い、人生が急展開していく…というストーリー。

このドラマがどんなジャンルなのかと聞かれると、とても難しい。恋愛ドラマであり、クライムサスペンスであり、企業の派閥争いも描かれ、もちろん人間ドラマの側面もある。ドンフンはエリートだが、もう一人の主人公であるジアンは貧困にあえでいる。他にも様々な立場の人が出てくる。一見理解しがたい彼ら彼女らの振る舞いも、背景が丁寧に描かれるので感情移入して見ることができてしまう。

タイトルの台詞は、ドンフンの古い友人が久しぶりの再会で彼にかける言葉である。ドンフンはどんな不条理も、自分さえ我慢すればいい、自分が犠牲になればすべてうまくいくと思って生きてきた。良い人なのだが、妻に「死んでるみたい」と言われるほど、自分の欲求や感情をなるべく表に出さないようにして生きてきた。「仕方ないんだ、人生なんてそんなもんだ」と半ば自暴自棄になっているところに、友人がこの言葉を投げかける。自分を犠牲にする人生が、本当は素晴らしくないことくらい、本当はドンフンだってわかっているはずなのだ。

ちなみにだが、私は人生において誰かの「息子」にも「父親」にもなったことがない人間であり、基本的にフィクションの中で描かれる親子愛にはあまり心を動かされない。実はこのドラマでも、息子は留学しているので実物はほとんど出てこず、ビデオ通話で一瞬顔が映る程度である。日常の中での親子の関係性というものがほとんど出てこないのである。

それなのに、いや、だからこそ、この台詞は本当に秀逸だと思ったし、おそらくドンフンの心を揺り動かすのにこれ以上の言葉はなかったんじゃないかと思う。

もう一度ブログを始めてみる

自分の書くことはずっと取るに足らないことだと思っていたので、ブログを継続する動機も薄いままだった。

だけど最近になってようやく気付いたのは、単純に、自分の思考について文章で表現することは自分にとって必要な行為なのだということ。今まで自分の考えを、友人等の近しい人に話すことで表現してきたが、私の思考には当然ながら、私の価値判断が入り込む。それを相手に一方的に聞かせることは、相手の負担になる。気づいていたはずなのに気づいていなかった。なんでも話していいものなんだと勘違いしてしまっていた。

遅きに失した気もするが、何年も経ってそのことにようやく気付いた。これは特定の相手ではなく、不特定多数に向けて表出したほうがいいものなのだ、ということに。

ちょうどいい例えがあるなと思ったのが、「デモなんかしても何も変わらない」という言葉に対して「人がデモをするのは、社会を変えるためではなく、自分が社会に変えられないため」と応答する話。私が文章を書く理由もそれと同じだ。社会を変えるとか、社会に向けた表現だとか、そんなことよりも、社会の中でどうにかして自分を持ち続けるために、必要なことなのだ。

「つまんない世の中」

いろんな種類の対話の会にときどき参加している。

コロナ禍以降はオンラインの対話が多い。

最近あったとある会は、自分ももう何年も前から参加していて、顔なじみの人も多い会だった。とはいえ、原則オンラインなので、あまり雑談であるとか身の上話のようなものは、自分はしたことがなく、他の参加者のそういった情報も会の中で断片的に聞いているくらいの、緩い関係性の会。

その中で、「最近は使う言葉に気をつけなきゃいけない」という話になった。私自身がその話のきっかけを言い始めたような気もするが、特にその点を掘り下げようと思って話したわけではなかった。その流れで、職場で部下にどんな話を振っていいか、どんな話を振ってはいけないか、その判断が難しいというような話になった。例をあげると若い女性社員に「彼氏いるの?」と聞くのはNG、とかそういった類の話だ。

私としては、言いたいことの方向性としては違っていなかったので、そうそう、と頷きながら聞いていた。そしてその話が終わると、ファシリテーター(対話の会で進行役、整理役をこう呼ぶことが多い)が、話に対して一定の理解を示した後、「つまんない世の中になっちゃいましたよね」と言った。

途中まで、うんうんと画面越しに頷いていた私であったが、それをやめた。あれ、おかしいな、「使う言葉に気をつけなきゃいけない」ことには賛同してくれていたはずなのに、最後にその感想が出てくるのか、と。そのことに驚いた。

つまり、気をつけなきゃいけないのは「傷つく人がいるかもしれないから」であって、本人としては傷つく意味がわからないので、「そんな会話もできないなんてつまらない」という感想が出てくる、ということなのか。

一瞬問い返そうかとも思った。「それってつまんないことなのですかね?」という風に。ただ、話題がすでに別の話に移っていた。そしてそもそも、その場にいた人たちの中で「使う言葉に気をつけなきゃいけない」というテーマはあまり興味を持たれていないように感じた。なので私は問い返すのをやめた。

「冬のなんかさ、春のなんかね」

山崎ナオコーラ好きとしては、やはり見ないわけにはいかない。

SNS上では賛否あるようだが。

文菜はいうほどひどい奴じゃない。むしろまじめすぎる。高校時代、大学時代、好きな相手に振られているのはむしろ文菜のほうだ。それが今の「誰も本気で好きになれない」彼女を形成したのは間違いない。大学時代の文菜は、浮気性の男と付き合う友達に対して本気で怒っているくらいなのだ。だが人間は変わる。べつに変わっていい。

いろいろ印象的な場面があって、作家を目指すきっかけとなった元恋人とトークイベントで再会するシーン。イベントの中で元恋人に対して「しょぼい男でした」と発言する文菜。こんな作家、ちょっと嫌かも、と見ている側としては思ってしまうわけだが、その後2人で食事に行った先で、元恋人のしょうもなさがこれでもかと見せつけられる。ほぼ会話のやりとりだけで、あんなにいたたまれない気持ちにさせる修羅場は久しぶりに見た。なんとも秀逸な流れだった。

ところで、その後に付き合って2か月で別れてしまった恋人が、文菜に告白するシーンで、文菜は何度も「なんで私のことを好きになったの?」と尋ねる。しつこいくらいに尋ねる。こういうところも第三者から見ると、「(かわいいから、以外にあるのか?)」と思ってしまうわけだが、実は彼女はわりと本気で、相手の真意を確かめようとしているんじゃないかという気がする。ニコニコへらへらしているように見えて、これも彼女なりのまじめさであり、それは時に人の心をざわつかせる。

バゲットがあれば必ず買う

お題「ベーカリー(パン屋)で必ず買ってしまうパン」

昔ながらの町のパン屋さんが嫌いなわけではない。それでもやっぱりパン屋に期待するのはハード系のパン。ガラス張りの店内にバゲットが見えたらとりあえず店に入る。そしてその他のハード系パンをとりあえず物色する。カンパーニュも好きだ。個性のある具材を使ったものも好き。ナッツ系は最高だがドライフルーツはなんでもいいというわけではなくて多少好みがある。イチジクはそそられる。マカダミアナッツも大好きだ。そして誰に何と言われようと、チョコレート。パンとチョコレートというこれ以上ない至高の組み合わせ。パンの種類もチョコの種類も特に問わない。何をどうやったって合うのだから。

数年前引っ越してからというもの、残念ながらお気に入りのパン屋が近くになくなってしまった。ないこともないが、そうそう気軽には行けない距離。

そういうわけで相も変わらず日比谷に行くとプチメックに寄っている。マカダミアと黒胡椒のバゲットがお気に入り。

推し活にハマれないタイプの人間だった

趣味の一つとして完全に認知された感のある推し活だが、何事にもハマれない人生を送っている私としては結局ハマれていない。

いや、実を言うと2022年頃に突如としてBTSにハマった時は、「これが推しってやつか!めちゃめちゃ楽しい!」と思いながら毎日YouTubeにかじりついていた。職場の友人も無事に巻き込み、釜山コンの映画、ユンギソロのライブビューイングにも一緒に行った。ジミンセンイルの時は別の友人を誘って新大久保に行ったりもした。不思議なことに、私はこれまでアイドル(彼らをアイドルと言うかアーティストと言うかは意見がわかれるが)を好き!などと友人たちのあいだで公言したことは一度もないし明らかにそんなことを言うタイプでもなかったにもかかわらず、彼女たちの誰一人として「なになに急にどうしちゃったの?w」という反応をしなかったことだ。へ~BTSかっこいいよね、すごい人気だよね、私の知り合いもファンだよ~というごく普通の反応だった。それがBTSであるが故なのか、推し活の一般化故なのか、理由は定かではない。

そんな彼らも兵役に行き、それでも各々のソロ活動が続いたりして意外とコンテンツは途切れることがなかった。しかしながらこの時点でまだ私はファンクラブにさえ入っていなかった。お金を落としたのは前述した映画と、PLOOFのCD購入、ジミンのソロアルバムと写真集、以上である。もちろん彼らはお金をかけなくても膨大なYouTubeコンテンツ、weverseライブ、SNSでひっきりなしに流れてくるファンが撮影したイベント・ライブの映像を見ることができるので、お金をかける必要がないというのもある。

それは裏を返せば、普段自分が利用しているweb上のプラットフォームがすべて、彼ら一色になるということも意味する。どのサイトを開いても、彼らが登場する。そして彼らの一挙手一投足を子細に追い続けるファンのアカウントも同時に目に入ることになる。そんな状態なので、スキャンダルなどが起きた日には、SNSは大荒れである。ここぞとばかりにアンチが湧き、それがご丁寧に「おすすめ」に挙がってくる。個別のスキャンダルだけでなく、所属事務所のスキャンダルも話題に事欠かない。いやむしろ、明らかに、そちらのほうが問題だろう。ひいてはアイドル産業全体に対する批判もあちこちで目にするようになる。

アイドル産業への批判、そんなことはいい大人なら、誰でも最初からわかっていることだ。自分自身だってそういう視点を持ったことがないと言ったら嘘になる。いやどちらかというと、批判していた側だったと思う。だから書かれていることは痛いほどよくわかった。

そして、ある時ふと我に返った。いや、そもそも私はちっとも推しにお金を落としていないオタクだったわけだが、気持ちとしては比較的重めなほうだったと自負している。それが、まあ、こんなものか、という気持ちに突然なった。もちろん兵役も関係している。数年ぶりに7人でパフォーマンスする姿はきっと相変わらずかっこいいだろう。それでも以前のような熱い思いが自分の中に湧き上がるかというと、それはやや懐疑的である。友人の手前、ライブ行きたい、ファンクラブ入らなきゃ等と言ってはいるが、半分くらいは行けなくてもいいかなと思っている。いや、7割くらい。もちろん彼らが嫌いになったわけではない。だが、推し活というのはやはり、趣味のひとつとしては、少々対象に依存的すぎるように思う。ファンが熱狂的になりすぎて問題を起こす、なんて話もよく耳にするが、それは当然だと思う。なぜって熱狂的になるように仕向けているのは運営側なのだから。いきすぎてしまわないよう多少の注意は払っているだろうが、ちょっといきすぎくらいがちょうどいいのだ。そうでなければアイドルたちの人気の証明にならないのだから。

そんなことを冷静に考え始めると、いったい自分の中にあった熱狂はなんだったのだろうという気持ちにも残念ながらなってしまう。程よい距離感で推し活を続けている人も当然いるだろうし否定をするつもりは全くない。ただ、推し活が一時的な熱狂を原動力とする以上、それが比較的早いうちに冷めてしまうのは必然であるような気もしてくるのだ。

 

病気じゃないってなんだろう?:映画『どうすればよかったか?』

SNSなどで話題になっているこの映画。優秀だった姉が突如統合失調症を発症するも、医者であり研究者であった両親はそれを「病気」とは認めず20年以上一切の治療を受けさせなかった。その家族のありようを、映画監督である弟の視点から記録した映画である。

 

この作品については多くの専門家がすでに様々な見解を述べているので、統合失調症という病気に関する部分にフォーカスして自分がなにか書けるとは思えない。ただ、映画を見終わった後にふと心をよぎったのは「病気じゃないってなんだろう?」という思いである。映画の中で、時に声を荒げながら意味の通じないことを何度も繰り返し話し続ける姉(まこちゃん)は確かに誰が見ても病気ではある。だが、四六時中そうしているというわけでもなく、一緒に外出して両親と連れ立って歩く姿はごく平凡な家族のようにも見える。なにより両親が、娘が多少変わった行動を取っても、特に驚く様子もなく淡々と受け流しているので、見ている側も次第にそのことに慣れていく。一方で、撮影者である弟がどれだけ説得してもかたくなに娘は病気ではないと言い張る両親の姿、自分たちの話をしているときは理路整然としているのに娘の話になると途端に話が通じなくなるというその極端な両親の姿が、次第に目に付くようになっていく。統合失調症の姉と健常者である両親はまるで写し鏡のようであり、病気であるとはいったいどういうことなのかと考えずにはいられない。

映画の冒頭で「この映画は姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的としていません」と述べられている通り、監督は病気の原因が何であるかを究明しようとはしていない。だが「なぜ姉がこのような状況になったか」については、詳細に描かれている。結果的に、ある時期から母親にも異変が現れ始めたことで写し鏡に亀裂ができ、姉はようやく解放される。病気からではなく、両親から。医療につながった後の姉の変わりよう、カメラに向けるピースサインには何度も胸が詰まった。